明治27年の創業以来、群馬県館林市に根を張り、伝統の味を守り続けてきた株式会社花山うどん。大正時代の幻の幅広麺を現代に復活させた「鬼ひも川」は、「うどん天下一決定戦(U-1グランプリ)」で3連覇という偉業を成し遂げた。その勢いは留まることを知らず、初代の想いが宿る東京・銀座や日本橋への進出を果たし、従業員数は30名から170名へと急拡大を遂げる。
しかし、その目覚ましい飛躍の陰で、バックオフィスは手動の集計や紙のタイムカードに頼る部分が多く、現場の負担が少しずつ大きくなっていた。毎月初、都内店舗から届く大量の封筒と鉛筆の手描き修正。現場の拡大スピードを支えるため、同社は「現場が迷わない直感的な使いやすさ」を最優先に掲げ、freee人事労務および経費精算の導入を決断する。
締め作業を毎月7日からわずか「半日」へと短縮した同社。整った経営基盤を力に変え、創業の地への感謝と誇りを胸に、アメリカ・ニューヨークという次なる世界の大舞台へ挑むバックオフィス改革の歩みを伺った。
132年の伝統と「うどん天下一決定戦」3連覇。初代の夢を追いかけた「攻めの都内進出」
明治27年創業という長い歴史を持つ株式会社花山うどん様ですが、どのような成り立ちで事業をスタートされたのでしょうか。
営業部 部長 畑谷 俊行 様(以下、畑谷):弊社の創業は明治27年で、今年132年目を迎えます。初代が東京の日本橋で卸問屋に奉公していた際、そこで食べたうどんが非常に美味しく、ルーツを調べたら群馬県から来たものだったそうです。「それなら自らもっと美味しいうどんを作ろう」と、故郷の群馬県館林市に拠点を構えたのがすべてのスタートでした。
群馬県の桐生などの地域で織物産業が盛んだったことも、御社の事業形態に大きな影響を与えたとお聞きしました。
畑谷:はい。東京(江戸)の商人の方々が織物を買いに群馬へお越しになる際、手土産やお使い物として弊社のうどんをお渡ししていたんです。そのため、地域で普段使いとして食べるものというよりも、贈答品・ギフトとしての立ち位置がすごく芽生えていきました。
その後、飲食の店舗展開や「鬼ひも川(ひも川うどん)」の復刻といった大きな変化が訪れたのですね。
畑谷:最初は製造とお土産用の販売が中心でしたが、その場でおいしく食べていただくために飲食店舗を併設するようになりました。大きな転機となったのは5代目が引き継いだタイミングです。大正時代に2代目が考案したものの廃盤となっていた幅広麺「鬼ひも川」の文献を5代目が発見し、厚みや食感に改良を重ね、復刻に向けて試行錯誤をくり返していました。
その「鬼ひも川」を携えて挑まれた「うどん天下一決定戦(U-1グランプリ)」での活躍が、全国的なブレイクのきっかけとなったのでしょうか。
畑谷:そうです。全国から名だたるうどん店が集う「うどん天下一決定戦」で、復刻させた「鬼ひも川」で挑戦したところ、3年連続で優勝をいただくことができました。代々木公園で開催されたその大会が終わってから店舗で提供を始めると爆発的な人気となり、一気に行列ができるようになりました。
その大反響を受けて、群馬の館林から東京・都内への進出を決断されたわけですね。都内への出店には特別な想いがあったのでしょうか。
畑谷:初代がうどんに感銘を受けた場所が日本の食が集まる「日本橋」であったため、5代目も「初代の想いを叶えたい」と強く思っていました。大会での手ごたえを経て、まずは銀座に出店し、その後悲願であった日本橋への出店を果たしました。単なる拡大ではなく、創業の原点に恩返しをし、群馬の代表として、うどんのおいしさと県産食材の魅力を国内外のお客様へ伝えていきたいという想いも込められています。
毎月初に都内等から届く「紙の封筒」—— 鉛筆の手書きと格闘したアナログな舞台裏
5代目継承時から従業員数が30名から170名へと急拡大していく中で、バックオフィスの運用にはどのような課題が生じていたのでしょうか。
畑谷:人数がまだ30名ほどだった頃は、会社として必要最低限のルールや規律のみの運用でした。お給料も「働いた分をしっかりお支払いする」というシンプルな形で、紙のタイムカードとExcelで帳簿をつけて管理していたんです。
当時はバックオフィスの専任担当者もいらっしゃらなかったそうですね。
畑谷:はい。当時は5代目の女将が1人でお給料計算から何から何まで、温かく切り盛りしてくれていたので、それで十分回っていたんです。その後、店舗で販売を担当していた木村(現・総務部主任)が労務や総務、経理の領域を引き継ぎ、女将と2人体制で手作業による集計作業を行うようになっていきました。
都内への店舗展開が進むにつれて、紙を使った集計作業はさらに煩雑化していったのでしょうか。
畑谷:はい。銀座や日本橋の店舗から、毎月初になると紙のタイムカードや経費の領収書が封筒に入って本社へ送られてくるシステムになっていました。1つの店舗だけでも30名ほどスタッフがいますから、毎月50〜60枚もの紙がまとめて送られてくるわけです。
届いた大量の紙のタイムカードは、具体的にどのようにチェックされていたのですか。
総務部 主任 木村 有貴子様(以下、木村):送られてきたタイムカードを1枚ずつ確認するのですが、鉛筆で手直しされていたり、手書きで修正が入っていたりする部分をすべて目で追いながら計算していました。打刻漏れがないか、残業時間が合っているかをExcelの申請書と照合する作業をもくもくと続けていたんです。
経費の精算についても、同様に領収書の現物がそのまま送られてくる形だったのでしょうか。
木村:はい。店舗で急遽買い足した食材や、店舗装飾の備品を購入した領収書がそのまま送られてきます。その領収書を何十枚とめくりながら、日付や金額、内容を1点ずつチェックして帳簿に入力していく作業をしていました。
店舗数とスタッフ数が急増していく中で、そうしたアナログな作業を見直す時期に来ていると感じられたのですね。
畑谷:作業を行っている木村の隣にいたのですが、集計作業があまりにも非効率的で時間がかかりすぎていました。紙の郵送と手計算による運用の限界を感じ、「そろそろシステムを導入して、現場の負担を軽くしてあげたいな」と強く感じたんです。
「現場が迷わないこと」を最優先に。freee導入で締め作業は「5〜7日」から「半日」へ
紙での集計作業や手作業の運用を見直すにあたり、どのように新しいシステムの検討を進められたのでしょうか。
畑谷:私と木村の2人で東京で開催されていた展示会へ直接足を運びました。「打刻や集計をもっとスムーズにできるシステムはないか」と、1日かけて気になるところを何社も見て回ったのが最初のきっかけです。
数あるシステムの中から、最終的にfreeeを選ばれた一番の決め手は何だったのでしょうか。
畑谷:一番重視したのは「現場のスタッフにとって使いやすいか(UI)」という点でした。操作が直感的でシンプルであること、画面が見やすくて理解しやすいことを何よりも優先して探した結果、freeeが最も当てはまりました。
実際に導入されてから、紙での郵送や手作業による確認作業はどのように変わりましたか。
木村:これまでは毎月初に都内から送られてくるタイムカードを1枚ずつ確認していましたが、iPadなどでの打刻データがそのままシステムに集約されるようになりました。紙の到着を待つ必要も、手書きの数字を目で確認して手計算する時間もなくなりました。
締め作業や給与計算にかかっていた時間には、具体的にどれくらいの変化がありましたか。
畑谷:以前は締め作業と給与計算だけで毎月5営業日から7営業日ほど費やしていましたが、導入後は1.5日以下にまで短縮できました。170名規模になった今でも、イレギュラーな申請がないかチェックするだけで済むようになり、作業負担が劇的に軽くなりました。
経費精算の面でも、紙の領収書をめくって確認していた作業から大きな効率化が図れたのでしょうか。
木村:はい。以前は封筒で送られてくる何十枚もの領収書を1枚ずつめくって帳簿につけていましたが、今ではWeb上で確認・チェックするだけで完結するようになりました。確認作業がとてもスムーズになり、精神的な負担も大きく減りました。
温かい組織風土を守り抜き、館林の誇りを胸に「ニューヨーク」という次の夢へ
バックオフィスの効率化によって現場の負担が軽くなったことで、社内の雰囲気や現場の取り組みにはどのような変化が生まれたのでしょうか。
畑谷:現場のスタッフが新しい発想やアイデアをどんどん形にできるような余裕と風土がより深まりました。例えば、若いスタッフからの提案で「キーホルダーなどのノベルティグッズを作ってみよう」といった新しい挑戦や、飲食店舗の新メニュー開発などもスピード感をもって実現できています。
型にはまらず、現場の「やってみたい」という気持ちや遊び心を大切にする組織風土があるのですね。
畑谷:そうですね。「まずは試しにやってみなよ」というスタンスを会社としては大切にしています。素材や味はもちろんですが、「クレド」という会社が大切にしている考え方という一番大事な「軸」さえぶれなければ、新しいことにもどんどんチャレンジすることができる環境です。バックオフィスが整ったことで、そうした姿勢をしっかりと支えられるようになりました。
国内での店舗展開もひと段落し、御社は今、次なる大きな夢に向かって動き出されているとお聞きしました。
畑谷:はい。国内での一般的なうどん店舗としての出店は現在の体制で完了とし、次なる挑戦としてアメリカ・ニューヨークへの進出準備を進めています。海外で一から勝負し、トップを目指したいという5代目の強い想いから決まった大きなチャレンジです。
どれほど規模が拡大し世界へ進出しても、創業の地である群馬・館林への想いやこだわりが変わることはないのでしょうか。
畑谷:変わることは絶対にありません。どれだけ都内や海外で成功したとしても、創業の地である館林を基盤に、群馬を代表する企業として誇れるよう、地域と共に歩みながら挑戦し続けていきたいと思っています。

